所属学会・認定医・校医など
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成田市の歯医者のそらクリニックではマウスピース矯正、ホワイトニングに力を入れています。
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私は青森県で生まれ、父親は公務員で母親はパートで家計を養い、兄が3つ上の男2人兄弟の家族構成でした。家族の話によると風邪ばかりひいていて手のかかる子供だったそうです。
小学校に入ると友達の影響もあり野球をやりたい!と思い小学校の3年生の時に、近所の町内会で活動する野球のチームに入りました。
しかし4年生になった時、兄がバスケットボールをしていたこともあり、「お前も入れ!」と半ば強制的にバスケットボールをやることになりました、その時は本当は野球をやりたい!と思っていたのですが、今思うと両親は町内会で活動している野球チームよりも、学校単位で活動している部活動に入れたかったのと、青森では冬に雪が降る為野球が出来なくなるので室内の競技を進めてくれたのでしょう。
バスケットボールを初めて4年生の時はぱっとしない活動をしていたのですが、5年生になると監督も変わり、中学生と合同練習をやるようになり、それと共に中学生との練習試合等をやるようになってから全体のレベルが上がっていき小学校5年生と6年生の時に両方、チームメンバーと監督のお陰で青森県大会で2位、そして青森、岩手、秋田、宮城、山形、福島の代表が出場する東北大会にも行くことが出来ました。1位のチームだけ全国大会に出れたのですが、2年連続で準優勝に終わった思い出は今でも心に深く残っています。
中学生になると人生を変えるような出来事がありました。小学校から続けていたバスケットボールを続け、いつものように練習を行っている際に、私がボールを持っている相手にディフェンスに行った時、オフェンスである相手が振り返った際、相手の肘打ちがまともに私の顔面に入り、前歯が脱臼・破折してしまいました。
この時は、あまり大事になるとチームメンバーや顧問の先生に迷惑がかかると思い「全然大丈夫です」と言いながらもあまりにも尋常では無い前歯の状態に、練習を早く上がらせて頂き、歯科医院へ行くことにしました。
しかし当時は近隣に遅くまでやっている歯科医院が無く、自宅に相談しようと電話をするも、両親共に不在で(当時は携帯電話も存在しない時代でした)途方にくれながら、とりあえず徒歩30分かけて、近所の歯科医院へ診察してもらえるのかわからないまま向かいました。
歯科医院までの歩いている道の途中で「このまま一生前歯が無い状態で人生を過ごさなければならないんだろうか?一生歯が無い顔で、結婚出来ないんじゃないか?」と非常に落ち込んでいたのを覚えています。
その後歯科医院に到着するも、当然診察は終了しており医院は真っ暗でした。そこの歯科医院は隣に先生の自宅があり私は自宅の呼び鈴を鳴らしました。
私 「ピンポーン」、
先生 「はい」
私 「あの~部活での練習中に、前歯をぶつけてしまい困ってしまいまして・・」
先生 「あー、ちょっと待ってて」
出てきてくれた先生に、練習での出来事、いきさつを説明すると、先生は診察をしてくれると言ってくださいました。この時私はホッとしたのを記憶しています。
診断は歯牙脱臼及び破折、暫くは歯の安静を心がけて、食事もあまり固い物は食べないようにとの説明を受けました。
歯をぶつけてからは、先生に言われたように前歯を残す為には固いものを食べてはいけないんだ!と自分で勝手に思い込み、私の体のことを気遣ってバランス良く食べるようにと母は私を気遣ってくれたのですが、
「だって先生が固いものは咬むなと言ってた」と反抗して毎日、飲むカロリーメイトと豆腐、柔らかい野菜のみ食べるという生活を過ごし、咬むという作業を殆どしない生活を2~3ヶ月行っていました(歯医者になった今になって思うと、負担がかからなければ、通常の食事で大丈夫だったのですが・・・)
この経験が私の人生を決めることになったのです。
高校は地元の高校ではない少し離れた高校に通いました。地元の青森では交通の不便もあり、高校2年生の時からは親元を離れ、
4畳半の部屋で下宿生活を始めることになりました。
洗濯、掃除、週末の自炊と自宅にいるときよりもやることは増えましたが、楽しんでやっていたのを覚えています。
下宿生活では、午前中に授業が終わる土曜日には毎週のように私の部屋で麻雀を行うのが仲間うちで暗黙の了解になっており、
授業の終了のベルが鳴ると私の方にアイコンタクトをしてきて、土曜日なので昼食を私の部屋で皆でカップラーメンを食べたりして楽しかったのですが、
そのうち昼ごはんのカップラーメンの汁を毎回こたつ布団にこぼす人がいたり
今日はカップやきそばを食べると言って、湯切りのお湯を共同利用の洗面所に流し
ふやけたキャベツが排水口の排水ネットに大量にたまり、
当時排水ネットを掃除するという概念の無かった私は、下宿のおばさんが排水ネットを掃除しているとは知らずに、
下宿のおばさんにいつも注意をされていたことが、何故か思い出に残っています。
しかし、その仲間とは現在でも帰省した際には、必ず連絡するような仲間です、
私にとっては時に苦痛を感じていた麻雀が、かけがえの無い財産を与えてくれました。
きっと人生には無駄が無かったのでしょう
そのおかげもあって、大学時代~現在は麻雀には全く興味は無くなってしまいました。
さて、肝心の進路に関しては、中学時代の前歯を失った経験もあり、歯科医師という職業を自分の進路の選択肢に入れることも考えたこともありました。
しかし、
・自分の生まれ育った環境とは無縁の職業であること
・大学に入学する18歳で既に一生の職業が決まるのも何か踏ん切りがつかない。
・そもそも自分が合格出来る訳はない。
・でも長男に自宅を継いでもらうので、明確には言ってはいなかったのですが、私には何とか資格職に就いて欲しいという親の希望があること
・自分の前歯の治療をしてくれた先生のような存在になりたいこと。
などと漠然と歯科医師という仕事について考えていた時期もありましたが、やはり父の影響もあり公務員への道をなんとなく辿っていた時代でした。
そんな僕の高校生活での忘れられない思い出は、3年生の体育祭の最終種目のリレーで、私は青組のアンカーだったのですが、
バトンが渡った時は3位で受けたのですが、トップと2位のアンカーが交錯して共に転倒し、それを抜いてトップでゴールし、青組が奇跡の逆転優勝した思い出です、まあこれは高校という本当に狭い社会の話ですが、皆と抱き合って喜び合ったのが印象に残っています。
進路に関しましては、4畳半のベニア板に囲まれている下宿部屋で、雪の降る青森の寒い冬をコタツの中で勉強し、
はっきりとした記憶では無いですが、追い込みがかかる11月位からは毎日4時位まで勉強し、朝7時半に起きて学校に行くのですが。
早朝の気温は氷点下まで下がっているので、布団で寝ると気持ち良すぎて起きられなくなるか布団が寒過ぎて寝られないのもあり、
コタツの温度をわざと熱くして睡眠し、熱くて寝ていられないようにして起きていたのを覚えています。
そんな過程を経て、何とか歯学部に合格することが出来、入学することとなりました。
大学に入ると18年間住んだ青森県から、千葉県へ突然生活環境を変えることとなりました。もともと国立大学にしか行かせられないと言われ続けていたので、生活費をまかなう為に日本育英会という所から奨学金を借りたりもしていました。
さて、大学に入学すると部活の勧誘が凄く、田舎の高校では見たこともないような大学特有の組織化された勧誘によりマイナーな競技ですが、日本拳法部という部活に入ることになりました。
大学生というイメージから、きっとサークル感覚で、みんな和気あいあいと活動するんだろうなと思ってたら、少しそのイメージと違う部活で、大学で唯一女子部員、女子マネージャーがいない男だけの部活でした(現在は変わっているようですが)
その練習といえば、裸足で道路を走ったり、腕立て伏せはコンクリートの上でグーでしたり、走るかけ声は皆で「わっしょいわっしょい」といいながら走ったり、
また試合に出ると、対戦相手は上九一色村に緊急配備されていた自衛隊の人だったり。
また夏と冬の合宿になると僕を含め、皆が練習により普通に歩けなくなってしまい、険しい表情をしながら集団で手すりにつかまって足を引きずりながら歩く光景があったり、
後輩や同級生が遅刻すると、連帯責任と言って何回か丸坊主になることが出来たりと様々な体験をすることが出来ました。
そんな部活の練習中に私は右腕を骨折したことがあって、当然片手がギプスになり、歯科の実習もままならなくなったこともありました。
この時は、さすがに部活で骨折したのが理由で留年したとは、とてもとても親には言えなく、それでも当然カリキュラムに沿って実習中はあり、当然左手しか使えないので一番遅くなり、なので一番最後まで残り、なので帰宅してからもやっていました(当然ですが)
この時は本当に両親に迷惑をかけられない思いで必死でした。
そんな実習の中でも、部活の先輩方の救いもあり、何とか実習をクリアすることが出来ました(歯学部のような学校は、実習がクリア出来ないと留年になるケースが多いのです)
部活の試合では、毎年全日本拳法選手権というのが東京武道館でありまして、大学4年生の時に団体戦の2段以下の部で優勝することができ、一度だけですが格闘技通信という雑誌に載ることが出来ました
これはチームメンバーのおかげで、僕の貢献度は大したことは無いのですが、大切な人生の1ページです。
アルバイトに関しては深夜のカラオケ、おでんや、家庭教師、深夜の山崎パンの製造、引っ越しなどをやったりしていました
バイトのエピソードは様々ありますが、おでんやではスポンジケーキのように焼き上がる伊達巻がふんわりと焼き上がりそれがあまりにも美味しそうで、
主任に「伊達巻どうしても食べたいんですけど・・・」と聞いたら「残さずに食べるんだったら一枚食べていいぞ!まぁ絶対に無理だと思うけどな」と言われ、
「なんだそんなの簡単じゃん!」と、スポンジケーキ並みの大きさの伊達巻にチャレンジしたら、半分位食べた時点で涙目で「すいませんでした」と言ったこともありました。
(皆さんは焼きたての伊達巻を食べたことがありますでしょうか? あれはやはり冷やして一切れ二切れ食べるものだと痛感しました。ちなみにロールケーキ並みですから15切れ~20切れはありました。)
深夜の山崎パンの製造工場では、夜の8時から朝6時まで休憩を入れて9時間連続まるごとバナナのスポンジをひたすら巻き続けたり、
柏餅の柏の葉っぱをひたすら餅に巻き続けるセクションでは、柏餅の餅が8時間延々と出てくる機械の前で意識がもうろうとする中で社員さんに「オメー葉っぱの巻き方が汚ねーんだよ!」とベルトコンベアーの流れを止めてしまったこともありました。
引っ越しでは午前中の引っ越しと午後の引っ越しを続けてやったら、一日で体重が3キロ減って、吉野家で特盛りと並を食べたら、すぐに元の体重に戻ったりといろいろな思い出があります。
部活をやっていたのと、実習がある学科で時間が不規則であったので、出会いがあるような爽やかなバイトはやったことはありません。
そんなバイトでもたくさんのことを経験させて頂きました。
しかし そんな学生生活もいいこと続きではありません。
私は学籍番号が14番であり、当然私の実習相手は学籍番号13番の同級生か、学籍番号15番の同級生なのですが、
ある、夏の日に、実習相手の学籍番号15番の友人が志半ばで亡くなってしまいました。
その彼は部活中に体調不良になりそのまま帰らぬ人となってしまいました。
その時はショックで声も出ませんでした。
彼も一人暮らしだったので、よく実習後に近くの定食屋であーだこーだ言い合っていたのを覚えております。
十数年経った今、本当に彼がいてくれたからこそ現在の自分があるのだと感謝しております。
その後、大学を卒業し、卒業試験を終えて、国家試験が終わった時は、本当に達成感を感じ、同時に感謝の心が沸々と芽生えてきました。
今思うと、きっとあの達成感や感謝の気持ちは、試験からの卒業、部活からの卒業をすることによる達成感であり、
「この達成感は一人では達成出来たことでは無く、両親を含め自分と関わってくれた全ての人達がいたから達成出来たんだ」
と本気で思っていました。
しかし当時の僕が達成感を感じるにはまだまだ十年早く、のん気で責任も無い学生生活を送ってきた僕に仕事をすると現実が訪れることになります。
嬉しい事に、先輩の誘いもあり大学病院で研修医をさせて頂くことになりました、大学病院での勤務は朝9時~夕方5時まででしたが、一人暮らしをしていた私はもちろん研修医だけの給料では家賃を払い、電気、電話、水道等の支払いをすることは出来ませんでした。
なので、大学病院が終わる夕方5時以降は、夜9時まで埼玉の越谷市の歯科医院でアルバイトをさせて頂いておりました。
毎週水曜日には、群馬県の高崎市というところにアルバイトに行ったりもしていました
この時は、朝6時頃松戸を出て、高速で群馬の高崎市に向かい診察を行わさせて頂き、診察が終わった後、松戸へ帰宅するのですが、帰宅の運転の途中で、どうしても眠くなり、渋滞回避も兼ねて高坂PA(パーキングエリア)で一睡してから帰宅したりしていました、起きたら夜の24時~25時で、慌てて帰った記憶があります
研修医を終えて、一般開業医への勤務は八千代市の勝田台での勤務をスタートさせました。その歯科医院は千葉県内で9件あるグループ歯科医院で、八千代、鎌ヶ谷、千葉駅前、成東と日によって勤務地が変わる体制でした。
そこで学んだ経験が、今の社会人としての自分を形成しております、当時の院長にはとても感謝しております。
ここでの勤務は朝9時半出勤~夜の10時までの12時間半勤務でした。(これは大げさではなく現在もそれの時間で勤務をしている方がいるはずです。)
そこでの勤務は昼休みも当時の上司の分院長に「お前は何も出来ないのだから、昼飯を食う権利も無い!」と仮歯を作る練習をさせて頂き、
肉体的にほんの少しハードでしたが、「最初の仕事が自身の基準になるよ」という先輩方のアドバイスを受けたことと、
少ない期間で治療の経験を増やしたいという思いと、同級生に負けられないという思いもあって、前向きに仕事に取り組んでいました。
何も出来ない身分だったので当然であると思ってます。
当時は 患者さんの診療している足元で、患者さんに見えないように分院長に何度もローキックをして頂き、叱咤激励をして頂いたこともありましたし、
また、そのローキックをガードして分院長のすねに自分の膝があたり、それに怒った分院長がローキックではなくミドルキックに変わっていったこともありました。
何も出来ない身分だったので当然であると思っております。
そんな勤務先の思い出は火曜日と水曜日は成東~八街~成田~印西~鎌ヶ谷~松戸まで2時間かかって通勤したことなどが印象に残っています。
そんな中で、もっと色々な診療スタイルを身に付けたい!
色々聞けるのは今しかない!
と思いながら日々を過ごしている時に、研修医時代に面接に行った埼玉の草加市の医院から「Drの欠員が出たので、うちの医院で働かないか?」という誘いを受けました。
その医院は、研修医時代に見学に行ったところで「この歯科医院で勤務したい」と思っていたこともあり、埼玉県の歯科医院で働くことに決めました。
ここでは、口の中だけではなく、全身的な症状を捉えて治療を進めるという方針で、自分自身も多大な影響を受けました。
そこでの勤務はスタッフや先生(先生は私も含め4人、スタッフも20人以上の大きい歯科医院でした。)にも恵まれ、本当に毎日楽しく仕事をさせて頂いておりましたが。
今後、自分は歯科医師としてどうあるべきか、どのような自分になっているのが自身の道が拓けるのか、どのような自分になれば、自分の周りの人が幸せになれるのか、ということを考えると、自ずと独立・開業というのを意識しだしていました。
また当時の担当してもらっていた美容師さんとの出会いも、自分にとっては大きな出会いでした。
その当時担当してもらっていた美容師さんが現在の店舗を辞めて独立するということになり、独立する美容室の開店準備が進むにつれて、
ビール太りと心労により日に日にやつれていっていましたが自分の夢を果たしたいという、生き生きとした姿を間近で見ることが出来ました。
美容室の開店準備中にはカットしてもらう場所がないので、自分の一人暮らしの部屋に新聞紙をひいて、自宅用の椅子に座ってカットしてもらったこともありました。
そのとき僕は「この人にずっとカットしてもらおう!」と思っていたのですが、松戸から成田に引っ越してからは行っていません(すいません)
そんなことを考えながら過ごしていた時、先輩から「千葉県の富里市という歯科医院で、先生がいなくて診察が成り立たなくなっている歯科医院があるんだけど行かないか?」という提案を受けました、
当時責任者としての経験を積みたいと強く切望していた私は、勤務先の院長に相談をしました。
当時の上司である院長は「自分が思ったらその時が行動の時だよ」と言って頂き、快く送り出して頂きました。送別会も近くの定食屋で、スタッフには近所の居酒屋でやって頂きました、その節はありがとうございました。
しかし、その後は終電に乗り遅れて、夜通し越谷市(埼玉県)から流山市(千葉県)まで歩いて帰りましたが・・・
さて、富里での勤務に関しましては、自分の仕事内容もさることながら、人事の責任も負うという条件であり、
今までに無い忙しさや、やりがいや、落ち込むことなどがあって、あっという間に3年が経過していました。
私はまず、同じ働くなら患者様に満足して頂き、また、スタッフにも「歯医者のそらクリニックで働いてよかった」と思える医院を目指そうと考えました。
しかし、開業した当初は、「十分な説明をしよう」と思ってはいたものの、スタッフも少ない中で、たくさんの患者様を治療する忙しさにかまけて、一生懸命、歯を削っている状態でした。
しかし、診療を行っていくにつれて、私の使命は、患者様のお口の健康を通じて、歯科治療と定期健診を行うことにより、今後の人生をどのように豊かに過ごせるのか、それらをしないことによって今後どのような弊害が起こるのかを正確に伝えていくことであると考えていくようになってきました。
勤務しているスタッフもそうですが、人は意味のわからないことには納得してくれませんが、理屈がはっきり理解でき、必要性を感じた時、行動を起こしてもらえます。
自分の伝達力不足もあり、なかなか理解してもらうことが難しい場合もあるのですが、診療を続けていくうちに、徐々に歯の大切さに気づいてくださる方が増え、次第に定期健診の患者様が増えてきて、今では、治療中心の歯科医院から予防中心の歯科医院へとシフトしつつあります。
ここまでくるのに本当にたくさんの出来事がありました。
詳細を書いていないですが、開業する時が人生で一番応えた時期でした。
・・・ですが、今思えば人生で起こったこと全てが私にとって必要な過程であったと心から思います。
現在は、セミナー、勉強会等で多くの学びを得られる先生方にも助けられ、自分にとっての必要な過程は現在も進行形です。
いいことばかり書きましたが、時には家族、スタッフ、患者様から厳しい評価を受ける時もあります。
そのようなことが起こった時には軌道修正をし、修正点をひとつひとつ積み重ねていきたい。
そして、歯医者のそらクリニックを訪れる人すべてが、「なんか、通院するのが楽しいなぁ」と感じて下さる、そんな医院を作っていきたいと思います。
これまでいいことばかり書いてきたかもしれません。
しかし、どんなプロ野球のバッティングコーチがこのようにすれば打てる!勝てる!という理論がわかっていてもコーチ自身が打ってみて100%必ず打てるものでもありません。
治療内容に付きましてはプロとしての自覚を持ち、責任を持って取り組んで行きたいと思っております。
長々と読んでくださって本当にありがとうございました。
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